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童謡詩人金子みすゞ(本名 金子テル)は、1903年(明治36年)4月11日、山口県大津郡仙崎村で生まれました。
父の庄之助は渡海船の仕事をしていましたが、母ミチの妹フジの夫であり上山文英堂を営む上山松蔵の勧めで書店の支店長として満州に単身赴任し、みすゞが2歳の時、31歳の若さで亡くなりました(急性脳溢血説が有力)。そして翌年、2歳年下の弟正祐が子供のできなかった松蔵夫婦のところに養子に行き、母ミチは金子文英堂という本屋を開いて一家を支えることになりました。
みすゞは、小学校・女学校共に大変優秀な生徒で、本が好きで内向的ではありますが、心豊かで友達を愛し礼を尽くす優しい性格で、女学校では憧れの的だったそうです。
大正7年母の妹フジが突然の病で亡くなり、翌大正8年母ミチが松蔵と再婚するため下関に移り住んでいきました。この頃、配偶者を亡くした親戚同士の再婚はよくあることだったようです。そして金子家は、兄の堅助、祖母ウメ、みすゞの3人家族になりました。母に代わって弟の正祐が長い休みの度に金子家に遊びに来るようになりました。
大正12年に兄の堅助が結婚することとなり、20歳になったみすゞは兄夫婦が暮らす金子家を出て下関の母と弟のもとへ移り住みました。
しかし、松蔵は正祐を跡取りとして育てていたので本人に養子だということを話しておらず、みすゞは使用人として引き取られました。
下関で、みすゞは上山文英堂の支店の「商品館」の店番を任されることになりました。みすゞはここで西條八十の作品に出会い、『童話』などの雑誌に詩を投稿するようになりました。西條八十のみすゞの詩に対する評価は高く、沢山の作品が雑誌に載り、同世代の読者や投稿詩人たちの心を捉えました。音楽家を目指していた正祐とみすゞは話も合い、お互いの一番の良き理解者となりました。大正12年に詩を書き始めてからの約1年半がみすゞにとって最も輝いていた期間でした。大正13年、西條が雑誌の選者を辞めてフランス留学することになり、その後選者が代わってみすゞの作品が選ばれることが少なくなりました。
そんな中、みすゞに結婚話が持ち上がりました。松蔵は、正祐が店を継げるようになるまで店を任せられる人物を探しており、またみすゞを従姉妹だと思っている正祐の、みすゞへの態度を心配したのです。正祐の気持ちに気付いていたみすゞは、全てを丸く収めるため、上山文英堂の手代格として働いていた宮本啓喜と大正15年2月7日に結婚式を挙げ、上山文英堂の2階に住むことになりました。夫は結婚前にも芸者と心中未遂を起こすなど、商才はありますが女性関係に問題のある人でした。
みすゞは3月の西條八十の帰国に合わせて再び『童話』に投稿し始めました。しかし、今度は7月に『童話』自体が廃刊になってしまいました。一方みすゞの作品は童謡詩人会に認められ、「大漁」と「おさかな」が『日本童謡集 一九二六年版』に掲載されました。当時、一流詩人たちを会員としたこの会で、女性会員となったのは与謝野晶子に次いで二人目の栄誉だったそうです。
童謡詩人として素晴らしく輝きながら、結婚して数ヶ月で離婚話が持ち上がってきました。正祐と夫の関係が悪化し、正祐が家を出て行ったことや、何人かの女性が夫を訪ねて店にくることで松蔵の堪忍袋の緒が切れたのです。この出来事で、みすゞ夫婦は書店を辞め店を出ました。みすゞが離婚を思いとどまったのは、この時みすゞが妊娠していることが発覚したからでした。そして大正15年11月14日に長女ふさえが誕生しました。みすゞは、ふさえを何よりも愛しみ大切にする生活を送り始めました。
しかし夫は仕事が定まらず、転居を繰り返し、次第に収入を家に入れなくなり、家にも帰って来なくなっていきました。
さらには夫から移された淋病で寝たり起きたりの生活になってしまいます。この時代の淋病は放置すれば死に至る病気でした。それでも詩を書き続けるみすゞでしたが、全国から寄せられるファンレターの数々は男性からのものが多く、夫から一切の文通、さらには詩を作ること自体を禁止されてしまいます。みすゞはこれまでの作品を三冊の手帳に清書して(500篇以上ありました)、師である西條八十と正祐に送り、これ以後みすゞは詩を作らず、『南京玉』と題した手帳にふさえの幼く愛らしい言葉を書き留めていきました。
その後、夫の始めた菓子問屋の仕事は順調になりましたが、それに伴って女遊びが激しくなり、昭和5年2月にみすゞの病状の悪化に伴って離婚が決まりました。離婚に際しみすゞは娘を手元で育てたいと要求して、一度は夫も受け入れましたが、すぐに娘を引き取りたいという手紙が届くようになり、ついに『3月10日にふさえを連れて行く』という内容の手紙が届きました。当時子どもの親権は父親にしかなく、連れに来られたら引き渡すしかなかったようです。
そして昭和5年3月10日早朝、みすゞは枕元に遺書を3通残し、睡眠薬を飲みました。夫宛の遺書には「あなたがふうちゃんに与えられるのはお金であって、心の糧ではありません。母が私を育ててくれたように、どうからふうちゃんを母にあずけて、育ててほしいのです」、ミチと松蔵には「どうぞ、ふうちゃんのことをよろしくお願いします」、正祐には「さらば、われらの選手、勇ましくいけ」とあったそうです。
26年という短い生涯でした。
時間はかかりましたが、ふさえは上山松蔵とミチの養女として、大切に育てられました。
みすゞの作品は、その後50年以上忘れ去られていましたが、昭和59年矢崎節夫氏により再び世に紹介されるやいなや、瞬く間に有名になり、多くの人に愛されるようになりました。
参照:
・みんなを好きに 金子みすゞ物語 矢崎節夫著
・金子みすゞの作品と生涯にみる生と死 ― 分析心理学の視点から― 福田 周